今週のお題「遠くへ行きたい」
はじめに
今週のはてなブログお題は「遠くへ行きたい」とのことなので、数年前に東京(多摩)から仙台までママチャリで走った旅の記録を書きたいと思います。
筆者スペック
旅時点で22歳、そのへんの何処にでもいる文系大学生でした。
自転車はいちおう趣味でしたが、就活で弱体化していました。
この旅時点では、心肺機能や筋力など各種ステータスは普通の人でした。
ママチャリ東京→仙台の動機
今回使用したのは、東京で大学生活4年間のあいだ使い続けてきたママチャリでした。
就職先が宮城県内となり、ママチャリを持ってゆくか捨てるかの2択を迫られました。
1万8000円のどこにでもあるママチャリですが、4年間使い続けて愛着もあったため、捨てるのには抵抗がありました。
しかし、郵送すると万年単位で必要になります。
合理的に考えれば、捨てて新しいママチャリを買ったほうが良いでしょう。
しかし、精神的に捨てがたい。
ジレンマに陥り散々悩んだ末、自分で乗ってゆけば郵送代はタダになるため、このジレンマを解消出来ることに気づきました。
これが、ママチャリで東京から仙台まで走ろうと考えたきっかけです。
果たして、筆者は無事に仙台まで辿り着けるのか…?
激闘の記録は、以下よりご覧ください。
記事が長いので、YouTubeをひとつ貼っておきます。
よかったらBGMにしてください。
※再生中にページ移動すると再生が切れますので、お気をつけください。
〇日目見出し
1日目
はじめに
出発前に撮影したママチャリです。
このアパートを起点に、4年間縦横無尽に走ってきました。
筆者はクロスバイクも持っていて、クロスバイクを改造した時に外した部品をママチャリに付けていったため、普通のママチャリとは多少違う部分があります。
しかし、スペックとしては普通のママチャリの走行性能と大して変わりません。
今回の旅のために車体側に行った改装は、部屋に転がっていたDHバーをとりあえずつけてみただけです。
自転車専用ウェアも持っていますが、流石にママチャリに合わせるのは気が引けたため普通の私服を使いました。ジーパンです。
就活用カバンに防寒グッズを詰め込み、フレームに付いているバッグにパンク修理キットと最低限の工具を入れました。
期間など全く読めなかったため、とりあえずアルバイト先には1週間の休みを出しました。
以上の準備を経て、出発。
多摩モノレール線を北上し、多摩湖へ(〜15km)
自宅は、多摩地域でした。京王線の特急停車駅付近です。
東京から仙台まで走るには、日本橋を起点に青森まで続く国道4号線をひたすらゆけば良いです。
しかし、日本橋から西に40km程度離れた多摩地域からの出発だったため、どうやって国道4号線まで行くかが最初の問題となります。
とりあえず、まずは北上することにしました。
ガス栓を閉めて、コンセントから家電のプラグを全て抜いて、鍵を閉めたことを再度確認し、自転車に跨ってこぎ出しました。
長い旅のはじまりです。
多摩モノレール線沿いは、道も広く、走りやすいです。
2月だと北風が多いですが、この日は特段の強風ではなく、快調に走りました。
しかし、先は非常に長いです。
出来るだけ踏まず、意識的に怠惰にこぎ続けました。
多摩モノレール線の15km程度を1時間強で走り抜け、上北台の駅を過ぎてさらに北上すると、登りはじめます。
多摩湖までほんの少しですが、登るのです。
登りはじめた、その瞬間。
なにこれ、登らない(絶句)
それまで快調に走ってきたマイママチャリ号は、急に質量を感じさせてきました。
元々17kgの車体に、込み込み2kgくらい積載していました。
そのため当たり前といえば当たり前ですが、これほどまでに登らないのか、と絶句。
立ち漕ぎでどうにかしようとするも、フレームが小さすぎるせいでDHバーのパッド部分が膝に当たるため、ろくに立ち漕ぎ出来ません。
なんとか立ち漕ぎをやろうとしても、前カゴに詰め込んでいるため、ハンドリングが劣悪でやりにくいことこの上ないです。
情けないですが、多摩湖まで登るだけで息が上がっていました。
この時点で、家から15km。400kmとして、残り385kmです。
パーセンテージにすると、まだ全行程の3%です。
多摩湖畔で、帰ろうか10分悩みました。
今ならまだ引き返せます。
しかし、ここで帰っては、愛着のあるママチャリを捨てることになります。
意を決して、前に進むとしました。
埼玉へ征く(〜60km)
埼玉県に入って、西武ドームを右手に見ながら少し進み、左折して細道を3kmほど行きます。
「小手指原」という交差点で463号に合流し、そのまま407号に沿って北へ進むルートです。
大昔に一度だけ走ったことがありましたが、うろ覚えで多少のミスコース。
加えて交通量が多く、あまりゆっくり走れません。
否応なく踏まざるを得なくなり、著しく消耗します。
しかも地味にアップダウンが多く、ジャブのように連続で体力ゲージを殴ってきます。
この自転車、立ち漕ぎが著しくやりにくいのです。
多摩湖の一回の登りでさえ息が上がるくらいの状態で、無理を押して何発も登り続けた結果、遂に腰にきました。
ジーパンが腰を締めつけているのも悪かったのでしょう。
序盤ながらすでに満身創痍となりつつありましたが、多摩湖から40km以上頑張って、入間・坂戸を過ぎて東村山市に至りました。
しかし、無補給が祟って、この辺りで脚が回らなくなったため、コンビニへ。
とにかく疲れていたため、こってり系のものを食べたくてたまりませんでした。
ペヤング超大盛を購入し、1000kcal摂取。
腰がマシになってきたところで、再出発しました。
暑い街にたどり着いた(~75km)
"腰がマシになった"なんて幻想でした。
走り出してすぐ、痛み復活です。
しかし、家からすでに50km来ており、今更引き返せません。
だましだまし、負荷をかけないように走りました。
そして、大きな河川に出てきます。
荒川です。
振り返ると、慣れ親しんだ奥多摩の山並みが遠く、夕陽に照らされています。
暫し、荒川架橋からの景色に見惚れました。
荒川を渡ると、暑い街・熊谷です。
かの熊谷二郎直実…の熊谷。荒川と利根川に挟まれたような立地にある街です。
1日で、ごく普通のママチャリでも東京都から埼玉県の北の端までやってきました。
まだ先は長いですが、熊谷まで来た時点である程度満足していました。
すでに披露困憊しており、2月の短い陽がすでに傾きかけていたのもあって、今日はここまでとしました。
夜はネットカフェ。貧乏学生なので、ビジネスホテルに泊まるようなお金はありません。
夕食はペヤング超大盛です。市役所まえのセブンイレブンで買い食い。疲れた身体に油分と塩分が心地よく染みます。
ネットカフェにはいる前に、熊谷の街を少し散策してみました。
丁度節分で、神社では豆まきを行っていました。
地元の皆さんで賑わうなか、雰囲気を楽しみました。
それでは、2日目に続きます。
2日目
走り出す(〜75km)
6時間半ほど、眠れました。体感の回復は6割程度。
ちなみにこちら、ネカフェを出た時に撮影した自分のママチャリのフロントビューです。
ごちゃごちゃ付いていますが、これによって性能がアップしているかというとそんなことはありません。
真ん中についている黒い2本の棒はDH バーというもので、パッド部分に肘をついて、棒を掴むようにして使うものです。
しかし、この時点で既に、つけてきたことを後悔していました。
元々、バイパス系の死角が無い直線路で使えるかどうかという装備ですが、ここまでそんなシチュエーションはありませんでした。
ただの重りでしかなかった上、パッドが膝に当たってろくに立ち漕ぎが出来ない弊害が大きすぎました。
(パッドを前に出すと、サイコン=白い速度計と干渉してしまいます。)
身体がバキバキだったため、近くのコンビニまで散歩しました。
そして、朝食にペヤング超大盛を摂取。
6時半を回り、明るくなってきたため、出立することにしました。
久しく早朝に走ったことはありませんでしたが、気持ちよいものと再認識しました。
車は少ないし、何より空気が気持ち良いです。
真冬なので肌寒いのは事実ですが、朝陽を浴びて、空気を胸いっぱいに吸うと、生きていると実感できます。
17号線を東へ進み、熊谷の街を出てすぐの橋です。右手は上越新幹線。
陽、出ずる向きに走ってゆきます。
その地を、人は呼ぶ、帝國と(〜90km)
行田という街に入り、しばらく東へ進みます。
腰の痛みはまだ良いですが、股擦れが段々悪化してきました。
クロスバイクと違い、身体が起き上がっているためサドルに過度の荷重がかかってしまうようです。
しかも、荷重を抜いて誤魔化そうにもDH バーが邪魔で立ち漕ぎが出来ない始末。
しかし、我慢して走るしかありません。ヒリヒリするのを意識的に無意識にして、走りました。
右手側に突如現れる、忍城(おしじょう)。
石田三成公が、小田原北条氏攻めのさいに攻略を担当した城です。
石田三成公はこの城を落とせず、忍城は堅城として歴史に名前を刻みました。
名前のみ知っていましたが、行田という街にあることまでは知らず、右手側に急に出てきた時には驚きました。
行田市街を過ぎ、122号バイパスへ。
北上ほどなくして、大きな川が現れます。
利 根 川
川の向こうは…。
グンマー大帝國群馬県です。
ママチャリで、東京を発って、遂に群馬県までやってきました。
砂塵を越えて(〜145km)
利根川を渡ってほどなく、122号線を逸れて館林市街に入ります。
館林駅を左手に見ながら北上し、館林藤岡線に入ってひたすら真っ直ぐです。
そして、渡良瀬川に至り、早々に群馬県脱出。
東京・埼玉・群馬ときて、これでもう4県目です。
栃木県へ。
栃木県に入ってからは、11号線をひたすら直進です。
10時近くになり、小腹が空いてきたためペヤング超大盛を摂取。
写真を撮り損ねましたが、コンビニからは遙か男体山が雪化粧しているのが見えました。
この休憩コンビニから、次の大きな街となる宇都宮まで約30kmです。
しかし、一旦休むとアドレナリンが抜けるためか、再度乗った時に股に激痛が走ります。
意識的にサドルから荷重を抜いて、ギアを軽くして高回転で走りましたが、その程度の努力ではどうしようもないくらい痛みは強かったです。
まだ栃木県ですが、すでに精神力頼みでした。
しかし、痛みを超える苦難がこの先に待ち受けていました。
宇都宮まで後15km。西からの暴風となりました。
向かい風ではないだけまだ良かったとも言えますが、ハンドルを取られて車線中央に流されるくらいの風になりました。
そして、沿線の農地から巻き上げられた砂が道路の視界をほぼ覆うようになりました。
比喩ではなく、壁といっていいくらいの幕に覆われたかたちです。
これでは追突されかねないと歩道へ上がり、牛歩の進みとなりました。
前も後ろも砂で、しかも延々と農地が続くため、いつまでたっても砂の壁が切れません。
時々風が収まるタイミングでかろうじて視界が開けますが、目も開けられないほどのひたすら続く砂塵のなか、農地区間を走りました。心底、死ぬかと思いました。
宇都宮(〜145km)
砂、股の二重苦を乗り越えて、遂に宇都宮に到着しました。
この日に走ったのは80km弱。疲労困憊でした。
まだ関東地方も抜けられていません。控えめに計算して250kmくらい残っています。
目についた公園(あとで調べたら明保野公園という名前のよう)で、ベンチにひっくり返って小一時間眠ってしまいました。
時間的には昼下がりで、無理を押せばまだまだ前進できました。
しかし、ここで頑張っても後が続かないことが目に見えていたため、宇都宮で今日の走行を終えることにしました。
あれ、やばくね?(フラグ)
実は途中からずっと、一定周期でかたかたと音がしていました。
何か金属でも踏んだかなと思いましたが、宇都宮について後輪を確認しました。
一瞬???となりましたが、これはタイヤの内側のチューブの張力に、古くなったタイヤが負けている状態です。
言い換えれば、内側から引き裂かれつつある状態です。
まあ、ここまで150kmくらい大丈夫だったし、問題ないだろうと考えました。
余った時間をどうするか考えた結果、銭湯へ。
ネットカフェにもシャワーはありますが、旅塵を清めるには矢張り風呂に限ります。
股ずれほど酷くありませんでしたが、腰もこの時点でかなり痛んでいました。
そのため、電気風呂で、腰を徹底的にほぐしました。もちろんふくらはぎから太腿まで、脚部分もビリビリと刺激しました。
実際は大ダメージが残っているはずなのに、ほぐすと一時的にはとりあえず回復したように感じる不思議。
4時間くらい入って、でてくるともう真っ暗でした。
宇都宮市街まで走り、市営駐輪場に自転車を止めて散策。
オリオン通りというらしいです。
宇都宮といえばやはり餃子ですが、夕食は勿論ペヤング超大盛です。
そのままネットカフェへ。
次は3日目です。
3日目
関八州は北の果て、下野をゆく(〜225km)
現在の関東地方にあたる地域は、都道府県制が敷かれる明治時代より前は8つの国に分かれていました。
そのため、俗に関八州と呼ばれます。
今の栃木県にほぼ当たる領域は、下野(しもつけ)国と呼ばれていました。
只々広い関東平野もこの下野国で北の果てを迎え、それより北は陸奥国です。
太古のむかしは蝦夷と呼ばれた人々が住んでいたため、(ゆるい間接統治は行われていましたが)下野以西とは別の国と言って差し支えない状態でした。
ほんとうの意味でこの地域が中央政権の支配下に置かれるのは1100年代終盤の源頼朝による奥州征伐により、奥州藤原氏が滅びてのちです。
それまでは、この下野国が事実上、中央政権の最前線といっていい場所でした。
…余談が過ぎました。
朝5時台、ネットカフェを出て真暗闇の宇都宮市街を探索します。
市営駐輪場が6時半にしか開かない一方、ネットカフェの料金がそれを待つと上がってしまうため、中途半端な待ち時間が生まれました。
とりあえずコンビニでペヤング超大盛
椅子に座って食べていると、ひとけのない街で、何故かぴったり隣に座ってくる若い女性。
なんだこの人?と脳内がクエスチョンマークで一杯になったところで、件の女性はおもむろに煙草を取り出し喫煙開始。
自分は喘息持ちなので、煙を吸うと辛いです。場所を変えましたが、今もって謎です。
2月の朝は極寒で、ガタガタ震えながら駐輪場の前で立ち尽くしていました。
朝食で1000kcalをきっちり摂取して、出発。
宇都宮の市街地を出て左手を見ると、奥日光の山並みが朝陽を浴びて浮かび上がっていました。えもいわれず美しいです。
宇都宮から先はお待ちかねの国道4号線です。
ここから先はひたすら直進すれば、仙台まで行けます。
電気風呂ビリビリが効いたのか、身体は随分マシになりました。
また、DHバーを今更、取り外しました。
これにより立ち漕ぎがしやすくなり、股擦れもかなり軽減されました。
栃木・福島の境は山岳地帯となっています。
宇都宮を過ぎてから、約80kmをかけて300m程登るようなかたちです。
段々とアップダウンが増えますが、これまでは封印せざるを得なかった立ち漕ぎなども交えて進んでゆきました。
黒磯でお腹の減りを感じ、ペヤング超大盛を摂取。
那須高原への登りに備えます。
(黒磯あたりまで来ると、奥日光・那須の山並みがぐっと近くなります。)
DH バーを外して多少ましにはなっても、やはりママチャリです。
積載も含めて車重が絶望的に重く、とりあえず登るだけで精一杯でした。
加えて、いまにはじまったことではありませんが、本格的に登りはじめるとサドルの角度が気になります。
いくら何でもこれは上向きすぎですが、モンキーレンチ等持っていないので、直しようがありません。
いったん収まった腰が再度、かなり痛みましたが、なんとか登り切りました。
そして遂に…。
関八州に別れを告げて(〜275km)
那須の山岳を登りきり、少しくだりはじめたところで、看板が出てきます。
福島県入りです。
東京を発ったママチャリは、遂に東北地方にそのタイヤを踏み入れました。
福島県は栃木県境から、福島市に至るまで、緩やかにくだり基調です。
栃木県北部では鈍重に感じられたママチャリは、福島県に入ると非常に軽快に感じられました。
さして無理なく30km/h弱すら出せるくらい、軽快でした。
また、福島県は全般的に路肩が広く、非常にストレスフリーでした。
東北地方まできたことに気分をよくして、いけいけどんどんで漕いでいるうちに、腰の痛みも自然と引いてゆきました。
これなら前途は明るい!(フラグ)
無事、フラグ回収
郡山市手前数km。
カタっカタっ…
ガンっ!!
もうお分かりですね。綺麗にフラグを回収しました。
歩道でママチャリをひっくり返して、かじかむ手でタイヤレバーを使ってタイヤを取り外し、チューブを確認します。
破れがあったため、とりあえずパンク修理キットでチューブを塞ぎ、再走行スタート。
しかし、数百mで再び。
カタっカタっ…
ガンっ!!
これはチューブだけ直してもダメなんだな、と分かりました。
一縷の期待で、フレームバッグを漁ること数分。
一片のゴム片が入っていました。タイヤを切ったものです。
自分のママチャリに発生したのは、所謂バーストと呼ばれるパンクです。
チューブを直しても、タイヤが裂けているためにチューブが際限なく膨らんでしまい、破れるためのパンクです。
古いタイヤを、タイヤに継ぎ接ぎして、破れを抑えればチューブの暴発はとりあえず防げます。
通りすがりのおじ様にも助力いただき、裏側からタイヤ片を貼り付けてみました。
恐る恐る走ってみましたが、一応問題なさそうです。おじ様に謝礼して、再び漕ぎだしました。
修理のせいで時間も押してきたため、とりあえずこの日は郡山までにしようと決めました。
郡山(〜275km)
郡山は、福島県でも1、2を争う大きな都市で、東北新幹線の停車駅です。
県庁所在地は50km弱北にある福島市ですが、こちらの方が栄えているというひともいます。
駅前のセブンイレブンで、早目の夕食を食べました。
ここで水以外の補給ペヤング超大盛縛り(密かにやっていました)は挫折…。
少し歩くと、如何にも昭和の香りを残す商店街。
今回は全く見て回れませんでしたが、いつか郡山の街を丁寧に見て回りたいです。
そして、仮眠場所と決めたスーパー銭湯へ。
銭湯の前からは、安達太良山が遠望できました。
4日目
〜福島(〜320km)
4日目は、午後から悪天候の予定でした。
失敗したのが、スマートフォンの充電を忘れていました。
写真が撮れないなか走っても、面白くありません。
50km弱の道のりを快適に走行し、本宮、二本松を過ぎてあっという間に福島市街へ。
阿武隈川(あぶくま川)を渡ります。
残10%を切ったスマホで、充電出来る場所を探すとドトールが出てきました。
しかし、訪れてみるとまさかの改装中休業。これでは断念するしかありません。
どうせ走っても降雨がわかりきっていたため、福島でストップとしました。
仙台まであと77kmの表示。
福島県もほぼ走り切って、宮城県はもう目前に迫ってきました。
5日目
※あえて目次リンクを設けません。順にお読みください。
国見峠へ(330km±)
早朝に発って、伊達あたりで朝陽を迎えます。
周囲の景色が、神々しく朱に染まってゆきます。
福島市街を出ると、国見峠に向けて登ってゆきます。
国見峠は標高こそ高くありませんが、何分すでに300km以上走っている脚です。
まだ朝早く、交通量も少なかったため、淡々と踏んで登りました。
以前に2回ここを通ったことがありますが、2回とも夜でした。
そのため、ここにコレがあるのには気づきませんでした。
阿津賀志山防塁跡です。
これは、源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした奥州合戦で、藤原氏の側が築城したものです。
そして宮城県へ(340km)
ついに宮城県まで来ました。
あとは仙台まで50km強、winning run です。
白石へのくだり(340km)
国見峠を越えて、白石の市街地まで下ってゆきます。
しかし、そのくだりの途中。
ガッ!ギャイイイイイイイイイン !!!
金属質な、耳をつんざくような音が響きました。
ちょうどダンプに抜かれたタイミングだったため、ダンプのブレーキか何かの音か?と思いました。
しかし、自分の車体から小刻みにカタカタ聞こえてくる上、目の前のカゴが落ち着かなくなりました。
降車し、確認すると。
カゴの支柱がポッキリです。
これは想定外でした。
バッグをまさぐると、ビニールテープがあったため、とりあえず応急処置。
いちおうしっかり、動かないように固定できました。
これで、もう大丈夫です。
あと50km(350km)
白石から先は、ひたすらバイパス様の道を直進です。
蔵王連峰が、雪を被ってそびえています。
時間も余裕、あとはただ漕げば良いだけです。
たった50kmで、長かったこの旅も終わります。
…?
そうは問屋がおろさない(370km〜)
残30km。
今までの全行程の、たった7.5%です。
そこで、また"アレ"が起きました。
ガンっ…。
嗚呼、ここにいたってコレか。
最後まで保ちませんでした。
とりあえずチューブを直して、タイヤの穴あき部分にタイヤ片を貼り付け直してみました。
しかし、何百mもいかないうちに、すぐパンクしてしまいました。
どうやらタイヤの裂け目が大きくなったせいで、タイヤ片では埋めきれないようです。
また、複数箇所にわたってタイヤに裂け目ができてしまっているようにも見えました。
自転車屋さんに行こうかと思いましたが、タイヤ自体の交換は預かりになって後日返却が殆どでしょう。
それでは、この旅では"たどり着けなかった"ということになります。
そもそも、全面的かつ積極的に、走行自体について他人の助けを借りたら、この旅を自分で成し遂げたとは言えなくなるという考えもありました。
結果、脚で走ることに決めました。
自転車を押して、あと30km弱。
日を分けてとはいえ、ママチャリを引きずって370km走ってきた脚です。
身体も、ダメージは蓄積しています。
しかし、最早この旅を成功させる手段は、それしかありませんでした。
果てしなく、只々果てしなく長い仙台バイパス
脚はすぐ、ろくに動かなくなりました。
しかし、歩くのと同等の速度でも、前に進みました。
岩沼。只々前へ、前へ。
舘腰駅で、水を買うために自転車を置いて自販機に向かったら、うしろから派手に倒れる音がしました。
振り返ると、ヘルメットが車体の下敷きに。
嫌な予感がしましたが、案の定割れていました。
これによって、被害総額がママチャリの購入額を超えました。
走る(ほぼ歩いているような速度)こと4時間。
ついに仙台市に到達。
広瀬川。
そして、ついに到着。
4泊5日で、ママチャリで東京から仙台までちょうど400km、走れました。
旅の行き着くところ
がたがたになった身体を引きずるようにして、自分が向かったのは青葉山でした。
青葉山から見る景色は、むかし、上京する前に見たのと変わりませんでした。
ここに至ったとき。
内心に浮かんできたのは、歓喜、達成感、そういうものではありませんでした。
只々"終わった"という事実の反芻。
ここが、この旅の終わり。そう感じられたので、この旅は終わりました。